神仏を信じない人と偽りの信者の死後の会話

紀暁嵐は著書《閲微草堂筆記》の中で次のようなことを記しています。

雨の多い福建省中部では、雨宿りができるように橋の上に屋根をつけることが多くあります。
ある晩のこと橋の上で雨宿りをしていた人が公務文書を手に持った役人と数人の囚人と看守も雨宿りしているのが見えました。枷(かせ)の音が聞こえ、彼は囚人が訊問されていることに気づき、あえて近づかずに隅っこで身を縮めていました。すると、一人の囚人の泣き声が聞こえました。

役人は怒鳴りつけました。
「今になって怖いと分かったのか、最初から悪事なんか働かなかったらよかったのだ」

囚人が泣きながら言いました。
「僕は先生の誤った教えに従ったからだ。神鬼や応報の話を全て仏学の妄語だと教わったからだ。その先生の話を信じたんだ。どんな方法でも誤りを誤魔化せば、一生バレることなく好き勝手にできると思った。人は100年経てば、死んでしまうし、揉め事も何もかもなくなるから、やりたい放題でも何も心配することなんかないと思っていたのだ。だけど、地獄も閻魔様も存在することが分かった今、その先生に陥れられたのだと分かった。とても悔しくて悲しいよ」

生前、仏法の意を取り違えていたというもう一人の囚人がこう言いました。
「君が堕落したのは知識人を信じたからだ。僕は仏を信じたから誤って落ちたのだ。仏家では、悪業を作っても功徳で帳消しにできるし、お経を読めば済度されると言われている。だから私は生前に線香を立てて布施をし、死後は僧侶にお経を読んでもらうことは、自分でもできると思った。仏法の護持があるのならやりたい放題できる。死んだ後、冥界の役人だって、僕をどうすることもできないはずだと思っていた」

「罪と福というものは心の働きが良いか悪いかによるものなんて考えもしなかった。財産の喜捨の多い少ないではなく、お金をいくら払っても罪からは逃れられないのだ。間違っていたが仏を信じたせいでなければ、私もここまでやり放題にできる訳がないよ」

話し終えた彼は号泣し他の囚人たちも泣き出しました。これらの会話を端っこで小さくなって聞いていた人は彼らが死んだ人たちだとようやく分かりました。

物語を語り終えた紀暁嵐は感慨深げに、「六経」に拠れば、儒家では鬼神は存在しないとは言っていないのに、顕示したがる書生らは経典を歪曲しました。仏教の経典『三蔵』でも、仏を賄賂で動かせるなんて言っていません。一方で神仏に祈り、一方で悪事を働き、これは善を成すとは言えず、どうやって災難を消せるでしょうか?

今日の人は 仏の名を借りて利益を漁り、僧侶の服を着て仏を頼りに生活を送っています。禍患はここまで深刻になっているのです。

 
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