「道理」を説く李洪志大師の教えは大変貴重=機関紙編集長

今年の旧正月に発表された、法輪功創始者、李洪志氏の文章「なぜ人類はいるのか」は、大紀元読者の間で広く読まれている。信仰やイデオロギーに限らず、その普遍的価値は支持されている。

九州を中心に保守言論活動を広め、国学に造詣のある保守系機関紙編集長・塚本保嗣氏に話を伺った。時代の価値観から逃れることは難しいなかで「道理を説く李洪志大師の教えは貴重」と語った。次の段落から同氏の論考となる。

日本は古来より、中国の漢籍から大きな影響を受け、江戸時代の武士階級は『四書五経』を手本にしながら、まず幼少から『小学』の「内篇(立教、明倫、敬身、稽古)」から「外篇(嘉言、善行)」を学び、修養の理や古人の言行を子供等の教育に生かしました。

そして『近思録』『大學』『論語』『孟子』『中庸』『六経』と順番に学んで行くのです(江戸中期くらいになると、江戸幕府が学問の中心としていた朱子学を「唐心(からごころ)」として捉え、これを超克すべきという考えが契沖から始まります)。

さて、近代法は民族の歴史や文化の中で醸成された慣習や習俗を「古代国家または部族社会の陋習」として排除する傾向があります。

近代法の概念が世界を覆いつくし、これにAIなどが加わり、合理的で均一な社会が出来たとします。果たしてそのような無機的社会を私どもが生きやすい社会といえるでしょうか。

また宗教などの価値観は百年千年で考えるべきものではなく、万年もしくは数十万年(あるいはそれ以上)という感覚で捉えなければならないと思います。

現代人が、宗教やある一定の価値観を持った人々の正邪を現在の価値観だけで判断するのは余りにも性急で、一種現代人ののおごりを感じています。

文明とはいったい何なのでしょうか。真の文明、または文明国とは「たとえ文明的に異なる国にも礼を尽くし信頼を得、相互の交流の中からお互いに学び合い高めて行く事」ではないでしょうか。

さて明治以後の日本は積極的に西洋の学問を取り入れ、清国や朝鮮などから留学生を招き、西洋学を解放します。

その数は国費留学生だけでも、年間八千人にも上ります。これは彼らが西洋を学ぼうとする時に、直接西には行かず、東の日本に行ったのには、彼らと共通した漢字の存在が大きいといえるでしょう。各留学生は西洋学を、漢字というフィルターを通じて日本から学んだのです。

これにより日本を通じてマルクス経済学もアジアに拡散されてゆくことになりますが、ある一定の時期まで学問の自由を重んじた日本が、その脅威に苦しんでいる現状は皮肉という以外ありません。

李洪志大師が申しておられるように、宇宙の法理というものに人間は気づくべきですし、まして抗う事など絶対にしてはならないことだと思います。しかしこれらの価値観を現代人、特に日本人は避ける傾向があると思います。自分こそがニュートラルで常識人いうのは余りにも滑稽だと思います。いくら自分は何ものにも染まらないと虚勢を張ってみたところで時代の価値観から逃れる事は、そうたやすい事ではありません。

人間は生まれ変わり死に変わりするものだと筆者は信じています。そしていつどこの誰に生まれ変わっても良いように現世で努力をする、そのように社会に大なり小なりの影響を与えて行く事こそが人間の使命だと感じています。

現代において「道理」を説く人はほとんどいなくなりました。だからこそ、李洪志大師の教えは大変貴重なのではないでしょうか。

(大紀元エポックタイムズより転載)

 
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